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鎌倉散歩⑰ [神社仏閣]

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鎌倉観音巡礼第2番札所(准胝観世音)
開山 円観慧鎮
開基 後醍醐天皇
本尊 子育経読地蔵大菩薩(唐仏地蔵 )

1333年の北条氏滅亡後その霊を弔うため、後醍醐天皇の命を受けた足利尊氏によって、当時小町邸と呼ばれ北条氏歴代執権屋敷跡であるこの地に建立されました。
また、戒壇院がおかれ国宝的人材を養成する道場として位置付けられていました。
ご本尊様は子育て経読み延命地蔵様で鎌倉二十四地蔵尊の第一番とされています、また、鎌倉三十三観音第二番である仏母准胝観音様、鎌倉、江ノ島七福神の毘沙門天様など
おおくのほとけさまがおられます。

撮影禁止の為本堂等は写しておりません。

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 本堂

宝戒寺の本堂には、本尊の「木造地蔵菩薩坐像」(国重文)、本尊脇侍の「木造梵天・帝釈天立像」(県文)、鎌倉三十三観音一つ「准胝観世音像」、鎌倉・江の島七福神の一つ「毘沙門天像」、唐仏地蔵と呼ばれる「地蔵菩薩立像」などが安置されている。

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            本尊の「木造地蔵菩薩坐像」は、鎌倉二十四地蔵の一つ。 
南北朝時代(貞治4年(1365年)の朱書銘)。
像高90.3㎝。

 鎌倉地方にはめずらしい円派の作品で、像内の銘により三条法印憲円の作であることが判明している。

~子育経読地蔵の名の由来~

本尊「木造地蔵菩薩坐像」は、別名「子育経読地蔵尊」と呼ばれる。
「宝戒寺門前で子供が生まれそうになったとき、子どもをとりあげる世話をしてくれた見知らぬお坊さんが地蔵の化身だった」とか、「毎晩夜中に聞こえる読経がお地蔵さまではないか」という伝説からこの名が付いたらしい。

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春に咲く [ファインダーの風景]

やっと暖かくなりましたね、皆さんの所は桜が咲いていますか?
こちら静岡はまだなんですよ、咲いている所も有るようですが開花宣言は出ておりません。
でもこんなにいろんな花が咲き出しましたからね。

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白木蓮

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寒桜

 

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木造天守閣② [ドライブ]

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貴族的な外観をもつ天守閣の美しさは「東海の名城」と謳われました。
しかし嘉永7年安政の東海大地震により天守閣など大半が損壊し、再建されることなく明治維新を
迎え、明治2年廃城となりました。その後、掛川市民の熱意と努力が身を結び、天守閣は平成6年に140年ぶりに木造で再建され、再び美しい姿を現しました。

掛川城天守閣は、外観3層、内部4層から成ります。6間×5間(約12m×10m)の天守閣
本体は、決して大きいものではありませんが、東西に張り出し部を設けたり、入り口
に付櫓(つけやぐら)を設けたりして外観を大きく、複雑に見せています。
1階、2階に比べ4階の望楼部が極端に小さいのは、殿舎の上に物見のための望楼を載せ
た出現期の天守閣のなごりといえます。白漆喰塗り籠めの真っ白な外容は、京都聚楽第
の建物に、黒塗りの廻縁・高欄は大阪城天守閣にならったと考えられます。

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戦国時代の明応六年から文亀元年の間に、駿河の守護大名今川氏が遠江支配の拠点として重臣朝比奈泰煕に築かせたと言われています。
その後、遠江における今川氏の勢力拡大に伴い、掛川古城では手狭となり、永正九年から十年頃に現在の地に掛川城が築かれました。
永禄三年、桶狭間の戦で今川義元が織田信長に討たれると、永禄十一年,義元の子氏真は甲斐の武田氏に駿河を追われ、掛川城に立てこもりました。翌年、徳川家康は掛川城を攻め、長期に渡る攻防の末和睦により開城させました。家康領有後、重臣石川家成が入城し、武田氏侵攻に対する防御の拠点となりました。
天正十八年、全国平定を達成した豊臣秀吉は、徳川家康を関東へ移すと、家康の旧領地に秀吉配下の大名を配置し、掛川城には山内一豊が入りました。一豊は城の拡張や城下の整備を行うとともに、掛川城に初めて天守閣をつくりました。

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木造天守閣 [ドライブ]

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貴族的な外観をもつ天守閣の美しさは「東海の名城」と謳われました。
しかし嘉永7年安政の東海大地震により天守閣など大半が損壊し、再建されることなく明治維新を
迎え、明治2年廃城となりました。その後、掛川市民の熱意と努力が身を結び、天守閣は平成6年に140年ぶりに木造で再建され、再び美しい姿を現しました。

掛川城天守閣は、外観3層、内部4層から成ります。6間×5間(約12m×10m)の天守閣
本体は、決して大きいものではありませんが、東西に張り出し部を設けたり、入り口
に付櫓(つけやぐら)を設けたりして外観を大きく、複雑に見せています。
1階、2階に比べ4階の望楼部が極端に小さいのは、殿舎の上に物見のための望楼を載せ
た出現期の天守閣のなごりといえます。白漆喰塗り籠めの真っ白な外容は、京都聚楽第
の建物に、黒塗りの廻縁・高欄は大阪城天守閣にならったと考えられます。

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戦国時代の明応六年から文亀元年の間に、駿河の守護大名今川氏が遠江支配の拠点として重臣朝比奈泰煕に築かせたと言われています。
その後、遠江における今川氏の勢力拡大に伴い、掛川古城では手狭となり、永正九年から十年頃に現在の地に掛川城が築かれました。
永禄三年、桶狭間の戦で今川義元が織田信長に討たれると、永禄十一年,義元の子氏真は甲斐の武田氏に駿河を追われ、掛川城に立てこもりました。翌年、徳川家康は掛川城を攻め、長期に渡る攻防の末和睦により開城させました。家康領有後、重臣石川家成が入城し、武田氏侵攻に対する防御の拠点となりました。
天正十八年、全国平定を達成した豊臣秀吉は、徳川家康を関東へ移すと、家康の旧領地に秀吉配下の大名を配置し、掛川城には山内一豊が入りました。一豊は城の拡張や城下の整備を行うとともに、掛川城に初めて天守閣をつくりました。

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狭庭の花 [ファインダーの風景]

我が家からちょっと歩くとこんな景色が見れるんですがなかなか上手く富士山が出てくれないんですよね。

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庭の花


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